市島酒造の歴史

寛政年間より酒造りを営々と

「当蔵の総本家「市島家」は、約420年前の慶長3年(1598年)に、加賀大聖寺より越後新発田藩に移封された溝口侯に随伴して当地に移住しました。市島家は薬種問屋を始め、酒造、金融、回船業などで商業資本を蓄積する一方、沼澤の多い荒蕪の土地を意欲的に開拓し、最盛時には4800町歩の田畑山林を所有する全国屈指の大地主となりました。

当蔵は初代市島秀松が寛政年間(1790年代)に宗家より分家し、現在の地にて酒造りを開始しました。創業時の銘柄は、諏訪神社前に位置したことから「諏訪盛」でした。歴代蔵元は学を好み、江戸文人との交流を通して後進を指導するなど新発田の文化に貢献しながら、営々と酒造りを続けてきました。

新発田の地で伝統を刻みながら
新時代の酒造りを目指して

 近代以降は銘柄を「王紋」とし、さらに純米系「夢」、そして新たに若者や女性好みの「かれん」と、伝統を守りながらも時代に合わせた酒造りを行っています。また、古くは女人禁制と云われた酒造りにいち早く女性蔵人を活用し、昭和54年には全国初の女性酒造一級技能士が誕生しました。作家宮尾登美子さんが小説「蔵」執筆前に取材され、漫画「夏子の酒」でも取り上げられるなど、女性が活躍する酒蔵の先駆けとして知られています。

初代 市島秀松

 現在は全国各地の皆様に当蔵の清酒をお楽しみいただいていますが、今も変わらず地元の定番酒「王紋」であり、新発田の方々は親しみをこめて当蔵を「王紋さん」と呼んでくださいます。これからも新発田の地で伝統を刻みながら、新時代の酒造りを目指します。

蔵人が
カッコよく見えて、
仕方なかった

OUR COMMITMENTS

日本初の女性一級醸造技能士 椎谷 和子

私は農家に嫁いで、農業をやっていたんです。それがある時、知人から「市島酒造さんでおかって(炊事)の働き手を探しているんだけど、やってみない」と誘ってもらったんです。秋から春にかけて行われる酒造りに従事する蔵人たちのご飯炊き。おかってには大きな釜がありまして、お湯をもらいに蔵人たちが1日に何回も出入りするんです。私も仕事のかたわら、蔵人の仕事を見てたんですね。そしたら、一生懸命、黙々と働く姿がカッコよくってね。次の年の秋、お願いしたんです。「造りに入らせてもらいたい」って。そうしたら、良いよって採用されて。当時、私の他に、瓶詰め、造りの手伝いに女性が5、6人いましてね、その人たちと一緒に働くようになりました。力仕事が多かったけど、本業は農家。全く苦にはならなかったですね、それよりも自分が蔵人になれた喜びが強かったですね。

試験に向け、勉強している杜氏の姿に憧れて

そうして蔵で酒造りのお手伝いをしていたんですが、また転機がありましてね。昭和49年から始まった酒造技能士の検定試験です。始まった年に、杜氏と副杜氏が受験したんですが、その試験勉強をしている姿が素敵でね。それに試験が面白そうに映ったんです。で、試験を受けさせてほしいって翌年、杜氏に言ったんです。そうしたら、「せっかく受けるなら一級を受験しなさい」って言っていただいたんです。そこで昭和50年は働きながら、帰って家で勉強。睡眠時間は3時間程度という日も多く続きました。そうして、受験したら、合格の通知がきまして、正直自分でも驚きました。憧れから始まった受験でしたから。もちろん受かるつもりで必死に勉強したけども、そうしたら女性で受かったのは、一級、二級をあわせても私1人だって聞かされて二度ビックリですよ。

それからはもっと日本酒造りとの距離が近くなって、お酒の分析をしたり、しぼりをしたり、酒母造ったり、室に入って麹作ったり……。本当に男性と同じお仕事をさせていただきました。平成15年に退社するときに、実感したんです。「私は人が好きなんだ」って。働いている人、勉強している人……。たまたまご縁をいただいた市島酒造さんで多くの人たちに出会いました。人の口に入るものだからより丁寧に、真摯にものづくりを行う方々に。だから39年もの間、働くことができたんだと思います。だって、楽しかったもの、毎日。